最近、思う。
この社会がどんどん生きづらくなってきた理由のひとつは、「すべてを正しいか正しくないかで判断するようになってしまったこと」ではないだろうか。
働き方改革を例にとってみる。
時間外勤務は「正しくない」。時間内勤務は「正しい」。
それはたしかに理想ではある。だが、現実はどうか。
翌日の授業のために、もう少しだけ準備が必要なとき。
保護者とどうしても連絡を取らなければならないとき。
でも、その保護者は時間外にしか連絡が取れない。
そうした場面で時間外に働くことは「正しくない」のだろうか。
逆に、「時間内に退勤した」という事実だけが“正しさ”として肯定されるとき、
果たしてそれは、本当に誇るべきことなのだろうか。
これは教員に限った話ではない。
社会全体が、コンプライアンス重視へと進んでいること自体は望ましい流れだ。
ただ、それに伴って「正しくないことを断じる」空気が強くなってきた気がする。
気づかないうちに、「判断する側」が増えすぎてしまったのではないか。
そしてその視線が、現場で動く人たちを縛りつけてはいないか。
正しくないことの中にも、正しさはある。
正しいと言われる行為の中にも、盲点はある。
教育の現場では、特にそれを実感する。
たとえば、「子どもを怒鳴るのはよくない」。
その通りだと思う。
でも時に、「これは絶対にいけないんだ」という強い思いを、どうしても子どもに伝えたい場面がある。
静かに言ったって届かない。そんなときに声を荒げることは、果たして「不適切」なのか。
それがすべて「正しくない」と切り捨てられると、指導の根幹が崩れてしまう。
教員が「身動きが取れない」と感じるのは、こうした“正しさの二元論”に追い込まれているからだと思う。
そして、そのような二元論を迫ってくる保護者が確実に多くなっている。
白か黒かでは測れないことが、この仕事には山ほどある。
だからこそ、グレーの中でどう判断するか、何を信じて動くか。
その「揺らぎ」を抱えながら仕事をすることが、教育者のリアルな日常だ。