教員は教えながら、けっこう考えてる。

教えるだけじゃない、“考える先生”のつぶやき帳。

教師が裁かないという選択

子どもは、ときに嘘をつく。

とても自然なことだと思う。

それが、誰かを傷つける嘘であったとしても、
その裏には「自分を守るための必死な理由」がある。

「死ね」と言ってしまった。
でも、それをどうしても認められない。

物を隠してしまった。
状況からして明らかなのに、それが言えない。

「ごめんなさい」と言えば済む——そう思えるのは、ある程度成長した側の理屈なのかもしれない。

ときに、謝った瞬間に自分という存在が崩れてしまうと感じている子もいる。

私は、そういう時、追い詰めない。

明らかにすることを、あえてしない。

そう決めている。

ただ、それは子どもにとって楽な道ではない。
むしろ、見逃された方が苦しいこともある。

「信じているよ」と言われる方が、何倍もしんどい。

そして——まわりの子は、もう気づいている。
先生が言わなくても、誰がしたかはわかっている。

だからこそ、静かに距離ができていく。

心を閉ざされ、友達を失っていく。
それがその子にとって、いちばんの「罰」になる。

教師としては、もちろん、その場で向き合わせたいと願う。
でも、どうしてもその瞬間に認められないこともある。

そんなときは、「待つ」しかない。

成長は、直線じゃない。
いつか、認められるときが来る。
いつか、「あのとき、ごめんなさい」と言えるときが来る。

私は、そのときまで見守る。
そのときが来るまで、信じて、次の担任や出会う大人たちにバトンを渡していく。

成長のきっかけやタイミングは、本当に人それぞれ。

学校だけで育つわけじゃない。
そして、大人の指導だけで変われるわけでもない。

だから、願う。

がんばれ、子どもたち。